地域農業開拓の歴史
 
 小豆をはじめとする豆類、小麦、馬鈴薯、甜菜など良質の穀物を大量に産し、全国屈指の穀物地帯である十勝地方。その広大な耕地や森林をもつ中心都市が帯広…。

 十勝地域の開拓は珍しくも民間の手によるもので、寛文6年(1666年)に松前藩が「ビロ−場所」を設け、十勝農試アイヌと交易を始めたのが和人による十勝開発の始まりです。

  明治16年(1883年)に、静岡県加茂郡の依田勉三を中心とする「晩成社」が開拓団13戸、27名を組織して帯広に入植、帯広に開墾の鍬が入れられたが、当初は多難を極めほとんど見るべき成果を収められませんでした。しかしながら十勝の未開の開拓に挑んだチャレンジ精神、開拓者魂は脈々と受け継がれ十勝人の精神的源流になっています。

  やがて明治19年(1886年)に北海道庁が設置され、明治26年から帯広を起点として殖民区画割りが行われ、明治29年(1896年)以降移民に開放されることになりました。岐阜県、富山県、三重県、香川県、島根県、山形県等からの移住者により本格的な開墾が開始されたのです。



開拓当時の農家(明治45年頃)
 十勝川流域の沖積地から始まった帯広の開拓は、明治30年代に入って次第に周辺の台地にも及ぶようになるが、生育期間が短いばかりでなく、火山灰地、泥炭地等の土壌が占めており、常に冷害凶作や水害による農地の疲弊などに脅かされました。

 明治40年(1907年)に道央との鉄道が開通して農産物輸送が円滑化され、飛躍的に開拓が進められました。
昭和に入ってから冷害凶作が続き農家経済が悪化しました。これに対処するため、従来の豆作偏重を改め、乳牛、馬、小家畜の導入による有畜農業への転換、根菜類の導入、優良品種の普及と適地適作経営への転換、農作物加工の普及など、農業全般に対する改善が打ち出されました。



十勝の馬耕風景(昭和初期)
 瘠薄な土壌の不利な条件ながら、輪作農業の確立や酪農への転換、品種改良、農地改良等によりそれらを克服して、今日の帯広農業の基礎を築いてきました。
現在は、広大な耕地と自然環境に恵まれた我が国を代表する畑作・酪農地帯として大きく発展し、食料基地としてその前途は大きく期待されています。


大型コンバインによる小麦収穫(現在)
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